2016年9月11日日曜日

多弁は貧しさの裏返しである。

馴染みの喫茶店の魅力って、放っておいてもらえることに他ならない。
会議やバンドの練習の合間によく立ち寄る店は、いい感じで放っておいてくれる。

1人だからって、カウンター席を強要したりしない。空いてる限りは必ずテーブル席を勧める。
そうでない店は、「カウンターを選ばなくちゃいけないのかな」という空気感がある。
カウンターって、変に常連面している客がいたりして、居心地が悪いことも多い。
居酒屋のカウンターとは少々「親和性」において異なる部分があると常々思う。

お冷と一緒に、黙っていても新聞と週刊誌を置いて行ってくれる。
一度席についてから新聞や雑誌を物色しに行くのって、何だか落ち着かない。
見知らぬ街だと、瞬間でも席に鞄を置いておく無防備な行動はどうにも抵抗がある。
席につき、オーダーしてから新聞や雑誌を取りに行くって、どの店でもできる行為じゃない。

流しているDVDや音楽も、少し間をおいてから好みのものに変えてくれる。
コーヒーはたいていお代わりをサービスしてくれる。
そろそろ帰ろうかと時計をチラ見する頃になって、ようやく話しかけてくる。
この適度な距離感が心地よい。放っておいてもらえる安心感が心を休めてくれる。

本屋や喫茶店が長く愛されているのは、孤独であることが認められる空間だからだ。
「余計なお世話」に触れずに済む気楽さ。「自分のペース」で過ごせる気楽さ。
それがある場所はもっともっと大切にされてもいい。
見なくてもいい物や、聞かなくてもいい話に囲まれて暮らす現代人にとっては、
孤独であることはある種の贅沢になっていると思う。


【追記】
店に入るなり、店員に「何かお探しですか」と話しかけられるのも嫌いだ。
こっちは探し始めたばかりだ。黙って品物を眺めさせろと声を大にして言いたい。

タクシーの運転手が馴れ馴れしく世間話をしてくるのも嫌いだ。
「いや~天気悪いねぇ」って、見れば誰だってわかる。そんなこと。こっちは外にいたんだ。

北海道の大都市の土産物屋で得意気に海産物のセールスをしてくるのも嫌いだ。
こちとら浜育ち。子どもの頃から食べている。お前らよりもいいもの知ってるぞ。
一回、適当なことしゃべってたから「嘘こくな。ちゃんと勉強しろ」と言ったことあったっけ。

どいつもこいつも、しゃべればいいってもんじゃねえぞ。

2016年9月6日火曜日

50年の区切りはどこだ?

「50年に一度」の大雨を47歳の年に経験した。
あぁ、これはきっと50年目の出来事なんだろうなぁと思った。

あれから2年。

豪雨のさなか、気象情報をチェックしていると、隣の町が「50年に一度」だという。
これはきっと2年目の出来事なのかなぁと思いつつ、
前回が1年目だったら今回は3年目の出来事なわけで、
前回が25年目だったら今回は27年目の出来事なわけで、
ひょっとしたら48年目の後の50年目の出来事かもしれないし、
そうなりゃ50年に2回になるから「25年に一度」なのかなとも思うし、
でもやっぱり2年目だとしたら「50年に一度」が随分と早く来たわけで、
とどのつまり、「〇年に一度」という表現はこう立て続けにある物事には不向きだと。

「観測史上、稀な」とか、
「過去〇年間に△回記録されてるのみ」とか、
「(西暦)〇〇以降、△回あっただけ」とか、
そんな表現の方が正確な気がします。

「50年に一度」という表現が手軽な表現として独り歩きしてるなと思ってたら、
自然は随分と強烈なパンチをお見舞いしてきました。

読者のみなさん、ご心配をおかけしております。
流眺、大丈夫です。


【追記】
吹奏楽の全道大会に仲間と出かけて、2年連続の金賞をとってきました。
長時間移動の行きのバスはずっと宴会。到着したら当然安着祝い。
本番終えて帰りのバスも宴会。結果が出たらさらに盛り上がって宴会。
帰ってきてからも安着祝いもかねて改めて祝勝会。いやぁ、飲んだ飲んだ。
本番の舞台は実に楽しいものでした。古参のメンバーと喜びをかみしめました。
ま、そのあたりの話はまた別の機会に。